さらに鎌倉幕府の成立年はいつかと問うてみよう。昨今これに諸説があることが話題になる。諸説あり、折衷説としては、ある一時期に成立したのではなく段階的に成立したという、結果的に歴史観をナンセンスに帰す説明が与えられることもある。従来は1192年と言われたものだ。「イイクニ作ろう鎌倉幕府」である。この年は何を意味しているかといえば、 頼朝が天皇から征夷大将軍に任じられた年である。つまり、それは天皇を国家の最高権威とする天皇史観にすぎない。別解に1185年の文治の勅許があるが、それもまた天皇史観に過ぎない。日本史と名付けられた叙述のそこここに天皇史観が埋め込まれている。天皇史観は右派の作為のようでもあるが、同時に天皇を敵視した左派の史観でもある。天皇から考えるをやめて、現実の王権から日本史を見据えたらどうなるのか。
本書は鎌倉幕府の成立年について「一一八〇(治承四)年十月六日。それ以外にはあり得ない」と確言する。 それは王権から日本史を見た姿だ。頼朝が東国御家人を従えて鎌倉に入ったとき、彼は王になり、鎌倉幕府は成立した。
23 notes
at 2012/2/1 16:56:49
本書は、中世以降、皇位は誰が決めたのかと問い、武家であると答える。義務教育の範囲の歴史知識でも単純に答えられることだと単純に思う人もいるだろう。しかし、では、承久の乱の結末をどう見るか。天皇は退位させられ、上皇や皇子たちは流刑に処せられたが、天皇や上皇の罰則規定を誰が持っていたのか? やはり武家である、と答えられるだろうか。乱後の皇位を決めたのも武家であり、武家が皇統を決めているのである。そうすっぱりと答えることができただろうか。
本書はこうも問う、皇位を兄弟が争うのは珍しいことではないが、鎌倉時代後半の時代に限ってなぜ二系の皇統が併存したのか? これも義務教育の歴史で答えられるようにも思えるが、その本質を、武家が制御していたからだときっぱりと言えるだろうか。武家は皇統を分割統治していたとシンプルに日本史を理解できていたのだろうか。皇統は武家に制御され、自律性はない。武家が日本国の王だったであり、標題の「武士から王へ」につながる。その明白さを、なにかが眩ませているのではないかと、本書を読みながら気づかされる。
13 notes
at 2012/2/1 16:56:38
インド亜大陸では一部の富裕層を除いて一般大衆には正確に生年月日を記録する制度がなかった。パスポートには一応欄が設けられているけれど、書き込んである生年もアバウト、月日の空欄が気になる者はとりあえず元旦を宛がっておくなど、つまりはグローバルスタンダードに体面上つきあっているだけなのだ。
「つまり、人類の五人に一人は誕生日を持っていないことになるな」
衝撃は、かつてタイ人が生まれた曜日を大切にするという習慣を知った時よりも、はるかに大きかった。
239 notes
at 2012/1/31 9:36:09